「田中角栄」という名前は知っていても、どんな人だったのか、どんな人生を歩んだのか、詳しくは知らないという方は多いのではないでしょうか?
この記事では、田中角栄の波乱万丈な生涯をギュッとまとめてご紹介します。
驚くべきことに、彼は政界に進出する前から起業家として大成功していたんです!
貧しい農家に生まれた田中角栄が、いかにして日本のトップに上り詰めたのか?
その生涯を辿れば、きっとあなたも彼の魅力に引き込まれるはずです。
序章:貧しい農家に生まれた天才児
田中角栄は1918年5月4日、新潟県柏崎市の貧しい農家に生まれました。
幼少期から困窮した生活を経験し、高等小学校卒業後は15歳で単身上京。
中央工学校で建築学を学びながら、昼間は働き、夜は学校に通う苦学生活を送りました。
第1章:苦学力行、若き日の躍進
1934年(昭和9年)、16歳になった田中角栄は、将来の夢を抱いて新潟県柏崎市から上京しました。
しかし、上京直後に大きな壁に直面します。
理化学研究所の大河内正敏所長に弟子入りを志願したものの、門前払いされてしまったのです。
失意の中、田中角栄は群馬に本社がある土建会社井上工業の東京支店に住み込みで働き始めました。しかし、そこで諦めることなく、東京神田の中央工学校夜間部土木科に通い、建築学を学び続けたそうです。
昼間は仕事、夜は学業という苦しい生活の中で、田中角栄は様々な経験を積みました。
『保険評論』を発行する小山哲四郎の書生や、貿易商「高砂商会」の配送員など、多岐にわたる仕事をこなしながら、たくましく成長。
そして、1937年(昭和12年)、ついに19歳で独立し、共栄建築事務所を設立。
その後、1939年に陸軍に召集され、騎兵第24連隊に配属され、4月から満州国富錦で兵役に就きました。
軍隊時代に早稲田大学の「建築に関する専門講義録」を入手し、勉強に励みました。
当初は古兵から私的制裁を受けましたが、ノモンハン事件で古兵が動員されたことや、事務能力や筆跡の良さにより上官に認められるようになりました。
1940年3月(昭和16年)に陸軍騎兵上等兵に昇進しましたが、同年11月にクルップ性肺炎を発症し、翌年2月に内地に送還されました。
1941年10月に除隊。
その後、同1941年に東京で田中建築事務所を開設し、事業を拡大。1943年(昭和18年)には、25歳という若さで田中土建工業株式会社を設立。
田中土建工業は、彼の卓越した経営手腕と努力によって急成長を遂げ、年間施工実績で全国50位以内に入るほどになりました。
上京後わずか9年で自身の建設会社を設立し、成功を収めた田中角栄。この期間、彼は昼間は働きながら夜間学校で学び、独学で建築士の資格を取得するなど、並々ならぬ努力を重ねた。
この頃から、田中角栄は政治の世界にも関心を抱き始めていたと言われています。実業家として成功を収めながらも、常に社会全体を見据え、日本の未来を考えていたのでしょう。
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第2章:政界への挑戦、そして総理大臣へ
1945年11月、田中角栄は田中土建工業の顧問だった進歩党代議士の大麻唯男からの要請で献金を行いました。
これがきっかけとなり、翌年4月の第22回衆議院総選挙に日本進歩党公認で、郷里の新潟2区から立候補しました。
しかし、28歳という若さで挑んだ初の選挙戦は、人任せの選挙活動が祟り、落選という結果に終わりました。
田中陣営の足並みが乱れ、有権者へのアピールが十分にできなかったことが、敗因だと分析されています。
しかし、田中角栄はここで諦めませんでした。
初出馬の失敗から教訓を学び、次の選挙に向けて徹底的に戦略を練り直しました。
自ら選挙運動の指揮をとり、柏崎・刈羽と南魚沼を主眼とした選挙戦略を打ち立てました。
そして、次回の選挙で見事第3位で初当選を果たし、政界への切符を手に入れたのです。実業家から政治家への転身を決意した理由として、廃墟と化した日本の国土を復興させたいという強い願望があったことが語られています。
1947年、第23回衆議院総選挙で初当選を果たし、29歳で政界に本格的に進出。1948年には第二次吉田内閣で法務政務次官に就任。当選1回での政務次官就任は異例の抜擢でした。
「道路三法」の成立に尽力し、議員立法を通じて国民生活環境の整備や社会的弱者支援に取り組みました。地元選挙区でのトップ当選を重ね、政治基盤を確固たるものにしていきました。
1957年、39歳で岸内閣の郵政大臣に就任。これ以降、閣僚や自民党幹部を歴任し、大蔵大臣、通商産業大臣などの要職を務めました。
自民党内最大派閥の田中派(木曜クラブ)を率い、党内での影響力を強め、「コンピュータ付きブルドーザー」と呼ばれるほどの知識と実行力を示し、次世代のリーダーとして頭角を現しました。
そして1972年(昭和47年)、54歳で第64代内閣総理大臣に就任しました。田中角栄は、卓越した政治手腕と実行力を発揮し、約25年の歳月をかけて総理大臣の座に上り詰めたのです。
第3章:総理大臣として、そして失脚
華々しい業績と「金脈問題」
総理大臣として、田中角栄は「日本列島改造論」を提唱し、全国的な開発計画を推進しました。新幹線や高速道路の整備を進め、地方の振興と都市部の過密解消を目指しました。
また、長年の懸案であった日中国交正常化を1972年9月に実現。中華人民共和国を訪問し、日中共同声明に調印しました。これは、戦後日本の外交において画期的な出来事であり、田中角栄の最大の功績の一つと言えるでしょう。
しかし、その一方で、田中角栄の政治手法や金銭感覚に対する批判も高まっていました。1974年、フリージャーナリストの立花隆氏が「文芸春秋」誌上で「田中角栄の研究」を発表し、公共工事予定地の土地を事前に買い、高値で売り抜ける「金脈問題」を指摘しました。
失脚、そしてロッキード事件
この報道をきっかけに、田中角栄の金脈問題は大きな社会問題として取り上げられるように!
海外メディアもこの問題を大きく報道し、国内でも批判が強まりました。
1974年11月26日、田中角栄首相は辞意を表明。
同年12月9日、田中内閣は総辞職し、後任には三木武夫氏が就任しました。
失脚後も、田中角栄は政界に大きな影響力を持ち続けましたが、1976年2月には航空機売り込みに関する贈収賄疑惑(ロッキード事件)が発覚。同年7月に逮捕されました。
保釈後も政治活動を続け、1976年末の総選挙ではトップ当選を果たしましたが、ロッキード事件の影響は大きく、政治家としての信頼を大きく損なうことになりました。
田中角栄の首相在任期間は約2年5ヶ月(886日)でしたが、その間に日中国交正常化など重要な外交成果を上げる一方で、金脈問題やロッキード事件により政治家としての信頼を大きく損なうことになりました。
この章では、田中角栄が総理大臣として華々しい業績を上げた一方で、金脈問題やロッキード事件によって失脚していく様子が描かれています。彼の功績とスキャンダルは、現代においても議論の対象となっています。
第4章:晩年と死去、そして遺産
1985年、脳梗塞で倒れ、以降は健康が悪化。1989年に政界引退を表明しました。
晩年は自宅療養を続けながらも、娘の田中真紀子氏を通じて政治的影響力を保持していました。
1993年12月16日、東京都内で死去(享年75歳)。死因は肺炎でした。ロッキード事件の公訴は彼の死去により棄却されました。
田中角栄は、「日本列島改造論」や日中国交正常化などの歴史的業績で知られる一方、「政治とカネ」の問題による批判も多く受けました。その生涯は、良い面と悪い面がある人として、今も語り継がえられています。
エピローグ:妻との出会い
田中角栄は、建築士時代に身を寄せていた坂本家で、後に妻となる田中はな(旧姓坂本はな)と出会いました。はなは坂本家の一人娘で、当時31歳のバツイチ子持ちでした。田中角栄はその出会いから半年後の1942年3月3日、桃の節句に結婚しています。
はなは田中角栄より8歳年上で、小柄で愛嬌があり、芯の強さを秘めた女性でした。田中角栄は彼女の性格と働きぶりに惹かれ、「この人なら私が妻にもらい受けてもいい人だ」と密かに思ったそうです。
田中角栄の生涯は、まさに波乱万丈でした。貧しい農家に生まれながらも、努力と行動力で実業家として成功し、政界へと転身。
総理大臣の座まで上り詰めましたが、金脈問題やロッキード事件で失脚。それでもなお、政界に影響力を持ち続けたその生涯は、多くの人々に強烈な印象を与えました。
田中角栄の功績とスキャンダルは、現代においても議論の対象となっています。しかし、彼が日本の政治史に大きな足跡を残したことは間違いありません。
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